鯛の刺身


Image by Siggy Nowak from Pixabay

正月に買った鯛(生、養殖)を食べるのを忘れていた。消費期限から3日過ぎている。購入後冷凍せずに冷蔵庫のほうに入れっぱなしにしていた。柵の状態のままで見た目は新鮮ではないが特に問題なし。ラップをとってにおいを嗅ぐが特に問題なし。いけるか?火を通すべきか?ちょっと迷って、ちょっと端っこを切って食べてみる。うまい!?。普段食べている鯛よりも味が濃くなっているように感じる。消費期限はおいしく食べられる目安で食べられなくなる期限ではないと知ってはいるが、これは新鮮な鯛よりうまいのでは?

刺身はちょっと怖かったので、鯛茶漬けにしていただく。おいしい。養殖の鯛は天然より油が多く味が濃い。この鯛はさらに味が濃く感じる。

実は鯛は新鮮なものより、やや古いほうがうまいのでは?果物も熟れていないと甘くないし、牛肉も熟成させないとうまみはでない。人がうまみと感じるアミノ酸が生成されないとおいしく感じないからだ。鯛も同様に熟成させるとうまくなるのだろうか?

魚の場合は臭みが増すので新鮮なほうが一番おいしいと信じていたが、鯛に限っては違うのかも。もちろん鯖などの青魚は新鮮なほうが確かにうまいし、サーモンも古くなると味がしなくなることは経験上知っている。

賞味期限切れの鯛を食べたあと特におなかを壊すこともなかった。また鯛を買ってきて試してみよう。

日本人にとっての天皇家


Image by svklimkin from Pixabay

日本人は天皇家が好きである。正確には天皇家が好きな人が多数を占める。私も天皇家が好きである。天皇家に対して好意的な海外の記事を見かけると嬉しく思うし、もしチャンスがあればお目にかかりたいとさえ思う。天皇陛下を含め、一家の方々は芸能人ではないし、私も直接お会いしたことすらないし、肉声すらあまり聞く機会はない。にもかかわらず、なぜこうも人気があるのだろうか。

おそらく、われわれ日本人は天皇家の方々に日本人としての絶対的な善意を映しているのだと思う。もっとわかりやすく言うと、どんなに自分が下衆な人間であろうと、他の人と等しく全くの悪意なく接してくださると信じている。天皇陛下は決して他人を馬鹿にするような発言はしないし、他人を傷つけるような発言もなさらない、また心の中でさえも微塵の悪意をお持ちでない最強のいい人であると信じている。

人間は互いに心の中を覗けないので、お互いにどのように相手のことを考えているかわからない。実際いいひとと思っていた人が実は裏で陰口をするような人であったりすることはよくあるし、親しい友人といえど、勘違いや行き違いで悪意を抱いてしまうことがあり得る。でも天皇家の方々は違う。私がどんなにダメ人間であったとしても「死ねよクズ」などと決して言わないし、思うことすらしない。そう信じている。

先ほどから「信じている」と繰り返しているが、実際には信じる根拠などなく、本当はそう「信じたい」のであり、そうあってほしいという願望である。言い方を変えれば天皇は人々の精神的な拠り所となっている。

これは宗教と似た部分がある。人間は精神的に脆く、個人差はあれど精神的なダメージは回復に時間がかかる。また世の中または自身に対して不信をいだくようなことがあれば、精神的に不安定になる。支えてくれる家族や恋人、友人などがいれば幸いであるが、いない場合、または支える側であれば、さらに大きな精神的な支えを人は探し始める。それが「神」であったり「天皇」であったりもしくは両方であったりする。特に天皇は目で見ることができ、そこに実在する。

日本人の大多数が天皇に精神的な拠り所として寄りかかっている。そうだとすると天皇からするとそのストレスは半端ない大きさである。精神的な支えとなる役割をこなすためには完璧であらねばならない。ただ実際天皇も人間である。天皇自身が拠り所とするのはどこであろうか?私は知らない。ひょっとすると無いのかも。どちらにせよ、多大なストレスを受けながら日々お過ごしになっていることはよくわかる。もちろん私だけではなく多くの日本人がその苦労を感じ、陛下および天皇家の方々が心安らかに過ごされることを願っている。

日本以外の国はどうであろうか、特にアメリカなど、非常に興味深いけどこれはまた別の機会につぶやかせていただきます。

ネットの片隅でぼそぼそと小声でつぶやいておりますが、最後にひとつだけ、恐縮ですが天皇陛下およびご家族の方々が心安らかに過ごされるよう願っております。

作品にはその人の人間性が必ず表現される。


Image by Prashant Sharma from Pixabay

(注:下記内容は個人の見解であり、根拠はありません)
どのような作品にも作者の個性が反映される。個性だけならば特に問題はないのだけれど、実際には作者の本質が反映されている。なので自身の作品を公にすることは私にとって自身を丸裸にさらけだしているようで、こっ恥ずかしく、大変な勇気がいる。ここでいう作品というのは絵画や彫刻などに限定されず、文章、工作、スピーチなどすべての著作物がこれにあたる。当然今書いているこの文章も対象となる。つまりただの雑な文章ではあるが大変勇気を振り絞って書いている。
(別に自身の本質が反映されるからといって気にずる必要は全くないのだけれど、そこは人間なので、やはり相手に見透かされたり、悪い印象を持たれるのは嫌なのである。)

たとえば自由に絵を描いてもらうとする。風景を描く人もいれば、人間を描く人、街を描く人、空想を描く人、おそらくその人の心理を反映した絵になるはず。子供は特に他人に見せる前提で絵を描かないので、もろに心理が反映される。笑っている人の絵や泣いている人、中には首や腕を切って血が流れている絵を描く人もいる。素人目に見ても、血を流している絵を描く子は何かしら問題を抱えているのは明らかである。

絵が特にわかりやすいのは色づかい。大人の場合、誰かに見られることを想定し、自身の内面を抑えた表現にするし、もしテーマが決まっている場合(町の絵を描くなど)本質は反映されにくくなるように思われるが、色づかいまで気を使うことは少ない。単色(白黒)の絵を描く場合は人間関係に深刻な問題を抱えている。逆に複数の色を使うカラフルな絵を描くような人は比較的問題はないように思う。
いじめという犯罪行為で自殺した被害者の絵を拝見したことがあるが、いじめが始まる前と後で作風はもちろん色づかいも明らかに変化していることが誰の目で見ても明らかだった。最初は女の子が笑顔の絵が多かったが、いじめがひどいときの絵は黒色だけ、絵の内容も暗い感じの内容になっていた。いじめなどを受けている人間が声をあげて助けを求めることは少なく、場合によっては心配かけまいと何もないようにふるまうことすらある。でもその人の「作品」を観察することでひょっとしたらSOSを見つけることができたかもしれない。


Image by Khusen Rustamov from Pixabay

実際には絵などを見る機会はそんなにない。でもそれに近いものを日常で観察できる。それはその人の着ているもの。または社会人であれば報告書やプレゼンテーションスライドなどである。

洋服は一種の「作品」であり、その人の本質が現れる。例えば黒一色にこだわる人はあまり社交的ではないし、いろんなことに対していて否定的であり、自身の悪い点に関して顧みることが少ない。黒一色の服装をしている人がダメであるという話ではなく、むしろ問題を抱えているHELPが必要な人である。
絵画と同様に色づかいがダイレクトにその人の本性を反映する。プレゼンテーション資料も同じ。会社によってはテンプレートがあるかもしれないが、配色や文字の大きさなど「作品」である以上、その人の本質は必ず現れる。

価値観の違い1


Image by Kevin Ramirez from Pixabay

学生時代に後輩が教授に叱られへこんでいたので、慰めてやろうと思い「そんなの気にする必要ないって、どうせ君の人生に全く影響ないよ。60歳の自分を想像してみ?叱られたことすら忘れてるよ」って伝えたら、「先輩は能天気なんで僕の気持ちなんてわからないんでしょうね」のようなことを言われた。当時は「あれ?俺なんか間違ったこと言っちゃったかな?」ぐらいに思ってたけれど、今考えると間違ったと言わざるを得ない。当時の彼に必要だったのは「共感」であり、「正論」や「対策」ではなかった。「大丈夫?あんな言い方されると誰でもへこむよ、コーヒーおごってやるよ」ぐらいがよかったのかもしれない。

常に「共感」が正しい解なのではなく、相手の価値観に沿った回答を選ぶ必要があるということ。私のようなタイプには「共感」ではなく「対策」を示してくれれば「なるほど」と納得するだろうし、後輩のようなタイプであれば「対策」ではなく「共感」を示せば有効的な慰めになるはずだ。

どのように回答するべきか、それは相手の価値観に大きく依存する。それを見極めて適切な回答をするには相手を理解する必要がある。過去の私はそれが著しく欠けていた(今はちょっとましになった)。

この手の理解不足に起因する価値観のすれ違いおよびそれに伴うエピソードはよく目にする。たとえば男女関係、であったり、文系・理系思考など。問題の解決策はすでに示されていて、異なる価値観を互いに理解することである。一方で、これを実行することは非常に困難である。なぜなら価値観の違いは良いこと悪いことの定義が含まれるので異なる価値観の間で互いを理解する大きな障壁となっている。

「宗教」「人種」「文化」「性別」

互いに理解することは無理とすれば、それ以外の「解」が必要。

Creative Commons License


Image by Margarita Morales Esparza from Pixabay

クリエイティブコモンズ(CC)に関してよく知らなかったので、ちょっと調べてみた。クリエイティブコモンズジャパンが非常にわかりやすい。(そのに対し英語のクリエイティブコモンズのわかりにくいこと。日本は物事を分かりやすく伝える能力は世界一ではなかろうか。)

話をもとに戻す。
詳細は上記公式がわかりやすいので、ポイントだけ。
・CCの表記がある画像や動画はブログで利用してかまわない。CCがない場合はダメ。(どちらにせよ著作権は著作者に帰属する)
・ただし利用する際の条件が以下4つある。
・BY(原作者のクレジット(氏名、作品タイトルなど)を表示する。表示方法に指定はない)
・ND(元の作品を改変しない)
・NC(商用利用不可)
・SA(継承、改変を行った際には元の作品と同じ組み合わせのCCライセンスで公開する)

SAがちょっとわかりにくいけど、Wikipediaにわかりやすい例があったので紹介する。
「例えば仮にある人物がBY-SAで許諾された映画(movie)の一部を切り出してショート・フィルム(short film)を作った場合、そのショート・フィルムの著作権に基づくライセンスはBY-SAとする必要がある。」

以下のFlickrにアップされている画像を例にしてみます。

Image byDaniele from Flickr
右下に「Some rights reserved」と表記があり、さらにその横にCCの条件を示すアイコンが表記されている。
条件は「BY」と「NC」なので原作者のクレジットを表記し、商用利用でなければ利用してよいことになる。
「ND」と「SA」の表記がないので改変は可能。また改変した画像はCCの条件(BYとNC)を継承しなくてもよい。

あれ?SAがついていないので改変して商用利用可能にできるのでは?と思いましたができないようです。
元のCCより厳しくするようできますが、緩和はできません。

戦争が起きる理由


Image by Hans from Pixabay

ただの妄想と思ってもらってかまわない。戦争をしたいと思っている人はいない。世界に一人もいない。軍需産業の人間や、兵器開発をしている会社の人は戦争を望んでいると思うかもしれないが、そんなことは無い。根拠やデータはないのでこれはただの妄想だ。

誰も戦争を望まないのに、なぜ戦争が起きうるのか。原因はリソース不足である。不足するリソースは時代によって異なる。労働力、食料、土地、材料、水、エネルギー。世界でこれらのリソースが不足すると、戦争が起きる。負けたほうはリソースを搾取され、買ったほうはリソースを搾取する。科学技術の発展により、リソースの効率的利用や、発掘が可能になることで、リソース不足を防ぐことはできるが、リソース不足に追いつかないと途端に戦争が起こる。

近年不足しているのは労働力、食料、土地、材料、水、エネルギーすべて。
戦争を避けることができるのは良心のある政治家ではない。リソース不足を解決するすべての人の努力だ。
努力もしないで、政治家や他人の愚痴をいうだけの人々は戦争を止めることに全く寄与していないことを自覚すべきだ。

ポリティカル・コレクトネス


Image by Stefan Keller from Pixabay

ポリコレはポリティカル・コレクトネス(political Correctness)の略称 。本来は誤解を招かないような中立的な公正さを意味するが、実際には人選をする際に容姿や人種、性別などによる要因を排除することのように使われる。例えばディズニーの黒人の主人公や、ブランド広告で太った人を採用するなどの様子を指して、ポリコレに配慮したといった使われ方をする。
映画の製作者がどのようなキャスティングをするかは彼らの自由だし、広告主がどんな体形のモデルを採用しようと外部がとやかくいう筋合いはない。
でもひっかかるのは、本当に彼らは自身の表現したいものを表現しているのだろうか?もっとはっきり言うとそうはみえない。

たとえば容姿に関して言えば、太っているよりもスリムなほうが美しいと思うし、太っている体形を美しいとは全く思わない。アジア系の顔がダメとは言わないが、肌が白く眼が大きい、小顔のヨーロッパ系の人種の顔立ちは見とれるほど美しいと思う。いわゆるLGBTは生理的に受け付けない。いいだすときりがないけれど、言いたいことはなにかというと、個人的な差異はあるにせよ、美しいものは美しいし、醜いものは醜い、気持ち悪いものは気持ち悪い。それを表現することに対して、中立でない、といって排除することは間違っているといいたい。

ところが、おそらくではあるけれど、最近の「ポリコレに配慮した」表現は表現したいものを表現できず、中立になるように「強制された」表現にしか見えない。
もちろん、私が個人的にそう思っているだけで、皆が表現したいものを表現した結果、中立になっているかもしれない。(絶対そう思わないけど)

(無駄かもしれないが)誤解の無いよう補足しておくと、差別は許容されないし、誰かを中傷するような表現も許されない。醜いことや白人でないことがダメなわけではない、役割によって適材適所がある。適材適所を無視して、すべて中立にする表現には芸術的価値はない(売り上げを最大化する商業的価値はある)。

我々が見たいのはスリムで強く美しい主人公が醜い悪を打つ物語だ。小太りで目が小さくどんくさいパズーと短足で人間に怯える不細工で小心なシータが演じる「天空の城ラピュタ」は名作にならない。

人の価値


Image by Gerd Altmann from Pixabay
(要約)
犯罪者でも社会的価値がある。でも殺人者など、価値がないと判断されれば死刑。

人間に価値をつけること自体、「人間」として誤った考え方である。しかし一方で自身の価値にお悩みの方もいらっしゃいます。なので今回は、あえて人の価値について述べさせていただきたい。結論からいうと、基本的に無価値な人はいない。やさしさとか、偽善で言っているわけではない。後述する方法を除き、無価値な人間はいない。およそ人ひとりが社会に寄与する経済的価値は非常に大きい。
わかりやすい例でいうとサラリーマン。サラリーマンとして働き給料を受け取る額は約2億、それ以上にその人の貢献により会社が受け取る利益や経済への貢献は2億どころでは済まない。一人の人間を価値で換算すると何十億であっても不思議ではない。じゃあ給料を受け取っていないひとは価値がない?そんなことは全くない。例えば専業主婦(夫)であっても給料こそないものの、家族へのサポートという分業をしていると考えれば、裏方としての社会への貢献度はサラリーマンと同等またはそれ以上といってもいい。下手なサラリーマンより社会貢献度は(目に見えないけれど)きっと大きい。家事はもちろん、家族の健康管理やスケジューリングに会計、および事務手続き全般など、時間と手間がかかる仕事に価値がないわけがない。加えて育児などは「未来の価値ある人間の育成」ととらえればその価値は計り知れない。なぜならその子が将来どのような社会貢献をするかは未知数だから。少し話は逸れるが、だからこそ教育というものが非常に重要である。

ニートであろうと乞食であろうと本人の意思に関わらず、社会的文化の形成という側面での貢献が考えられる。もちろん反面教師という点から教育的価値もある。お金という数値で具体的に価値を計算できないし、比較的価値の低い人たちかもしれない、ただし目で見えない以上、価値の大小を議論する意味はない。
言いたいのは必ず価値があるということ。

少々口が悪いが、性格悪くても、ケチでも、心が狭くても、頭が悪くても、倫理観が多少欠如していても、何かをしていれば必ず人間社会への貢献をしている。なので「自分に価値がない」などと本気で思っているのであればそれは大きな間違いである。


Image by PublicDomainImages from Pixabay

刑務所に服役するような犯罪者はどうか?個人的な感情は控え、彼らにも価値はあると私は思う。法律には詳しくないが、裁判は「今後社会へどれだけ貢献することができるか」が判決を下す基準であるのだと思う。例えば5年服役するということは犯罪者が更生するのに要する時間であり、また出所後死ぬまでの間、再び社会へ貢献できるとの判断された結果だと思う。すなわち裁判とは刑罰を問う場のように見えて、実は犯罪者が今後更生し、死ぬまでに社会への貢献が犯罪のマイナスを打ち消して、正味プラスになるかどうかを議論する場である。決して胸糞悪い犯罪だから懲役10年!とかこいつ気に食わないから懲役12年!とか裁判長の気分や世論で決めるものではないし、そうであってはならない。
言い方を変えると犯罪者であっても、まだ価値があると判断されているからこそ、懲役刑が課されるのである。

価値がないと判断されれば、死刑となる。ひどい言い方だけど、裁判で今後、この犯罪者は社会へ出ても貢献できない、むしろマイナスであると判断されたことになる。そう判断されるのは殺人である。殺人は一人の人間が今後社会へ生み出すであっただろう利益を消し去ってしまう行為である。殺された人が今後生み出す価値だけでなく、その人を育てた親、教育者、友人、その他かかわりあった人達の時間と労力も消し去ってしまう恐ろしい行為だ。これらの損失を一人の人間が補填し、さらにプラスにするのは不可能ではないが非常に困難である。ましてや複数の殺人を犯している犯罪者であれば出所後に再び殺人を犯すかもしれない。

なにも死刑にせずとも終身刑にすればよいのでは、と思う人もいるかもしれないが、それは感情的立場からの意見であり、社会的価値の保全という点からみれば終身刑の意味はない。感情的立場から意見を言ってでなにが悪い、と思われるかもしれないが、裁判ではそのよう立場で議論するべきでないことは明白である。

倫理的な側面は別として、死刑は社会という集団で生きていくうえで、やはり合理的なのではないかと思う。

独学のすすめ


Image by Andrew Tan from Pixabay

何かを学ぶときに教師がいることで効率が良くなる可能性があることは否定しないけれど、教師がいないと学習できないわけではない。当たり前のように思われるが、意外と多くの人が勘違いをされているように思う。
例えば専門学校。公務員になるためには専門学校に行く必要があるか?当然必要ない。美術を学ぶのに専門学校げ行く必要があるか?必要ない。でも多くの人が、専門学校に行かないとダメだと勘違いしている。逆に専門学校にいけば自動的に実力が付くと勘違いしている人も多く見てきた。当然ながらそんなことはなく、本人のやる気だけに左右される。根拠は述べないけれど才能すら関係ないと断言できる。専門学校に行かなくても学ぶ意欲があればなんだって習得できる。

やや話はそれるが専門学校側もよくわかっている。できる奴はほったらかしでもできるし、できない奴は授業料を支払って終わり。進学校、学習塾、専門学校の講師、など、人にものを教える立場の人は皆知っている。授業料を払って講義を受けても、自動で実力は身につかない。

自分は独学だから、そうでない人に劣るなんて決して思わないでほしい。

交通事故の確率を下げる


Image by Pexels from Pixabay

きっと自動車による事故をゼロにすることはできない。でもその確率を下げることはできる。
もちろん自動車を運転しなければ事故にあう確率はほぼゼロになる。ただそういうわけにはいかないので、運転するのを前提で考える。
例えば「車線変更の数を減らす」。おそらく車線変更の数が多いほど事故の可能性は上がる。だから車線変更は極力しない。
また「黄色の信号は止まる」ようにする。「黄色信号は加速」なんて冗談で言われるが、実際黄色信号で加速したくなる気持ちはよくわかる。以前は私もそうであったが、危うく事故になりかけたことがリ、それ以降黄色信号では無理せず止まるようにしている。
「無駄に速度を上げない」一般道のほとんどは制限速度が40~60 km/h。でも急いでいるときや空いているときはついつい80km/hぐらい速度をだしてしまうことがある。でも遅いほうが当然事故の確率は減るはず。
「車線変更の数を減らす」
「黄色の信号は止まる」
「無駄に速度を上げない」
統計的なデータを持っていないが、たったこれだけで事故の確率をぐっと下げることができるはず。当たり前のようなことだけどね。