人の価値


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(要約)
犯罪者でも社会的価値がある。でも殺人者など、価値がないと判断されれば死刑。

人間に価値をつけること自体、「人間」として誤った考え方である。しかし一方で自身の価値にお悩みの方もいらっしゃいます。なので今回は、あえて人の価値について述べさせていただきたい。結論からいうと、基本的に無価値な人はいない。やさしさとか、偽善で言っているわけではない。後述する方法を除き、無価値な人間はいない。およそ人ひとりが社会に寄与する経済的価値は非常に大きい。
わかりやすい例でいうとサラリーマン。サラリーマンとして働き給料を受け取る額は約2億、それ以上にその人の貢献により会社が受け取る利益や経済への貢献は2億どころでは済まない。一人の人間を価値で換算すると何十億であっても不思議ではない。じゃあ給料を受け取っていないひとは価値がない?そんなことは全くない。例えば専業主婦(夫)であっても給料こそないものの、家族へのサポートという分業をしていると考えれば、裏方としての社会への貢献度はサラリーマンと同等またはそれ以上といってもいい。下手なサラリーマンより社会貢献度は(目に見えないけれど)きっと大きい。家事はもちろん、家族の健康管理やスケジューリングに会計、および事務手続き全般など、時間と手間がかかる仕事に価値がないわけがない。加えて育児などは「未来の価値ある人間の育成」ととらえればその価値は計り知れない。なぜならその子が将来どのような社会貢献をするかは未知数だから。少し話は逸れるが、だからこそ教育というものが非常に重要である。

ニートであろうと乞食であろうと本人の意思に関わらず、社会的文化の形成という側面での貢献が考えられる。もちろん反面教師という点から教育的価値もある。お金という数値で具体的に価値を計算できないし、比較的価値の低い人たちかもしれない、ただし目で見えない以上、価値の大小を議論する意味はない。
言いたいのは必ず価値があるということ。

少々口が悪いが、性格悪くても、ケチでも、心が狭くても、頭が悪くても、倫理観が多少欠如していても、何かをしていれば必ず人間社会への貢献をしている。なので「自分に価値がない」などと本気で思っているのであればそれは大きな間違いである。


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刑務所に服役するような犯罪者はどうか?個人的な感情は控え、彼らにも価値はあると私は思う。法律には詳しくないが、裁判は「今後社会へどれだけ貢献することができるか」が判決を下す基準であるのだと思う。例えば5年服役するということは犯罪者が更生するのに要する時間であり、また出所後死ぬまでの間、再び社会へ貢献できるとの判断された結果だと思う。すなわち裁判とは刑罰を問う場のように見えて、実は犯罪者が今後更生し、死ぬまでに社会への貢献が犯罪のマイナスを打ち消して、正味プラスになるかどうかを議論する場である。決して胸糞悪い犯罪だから懲役10年!とかこいつ気に食わないから懲役12年!とか裁判長の気分や世論で決めるものではないし、そうであってはならない。
言い方を変えると犯罪者であっても、まだ価値があると判断されているからこそ、懲役刑が課されるのである。

価値がないと判断されれば、死刑となる。ひどい言い方だけど、裁判で今後、この犯罪者は社会へ出ても貢献できない、むしろマイナスであると判断されたことになる。そう判断されるのは殺人である。殺人は一人の人間が今後社会へ生み出すであっただろう利益を消し去ってしまう行為である。殺された人が今後生み出す価値だけでなく、その人を育てた親、教育者、友人、その他かかわりあった人達の時間と労力も消し去ってしまう恐ろしい行為だ。これらの損失を一人の人間が補填し、さらにプラスにするのは不可能ではないが非常に困難である。ましてや複数の殺人を犯している犯罪者であれば出所後に再び殺人を犯すかもしれない。

なにも死刑にせずとも終身刑にすればよいのでは、と思う人もいるかもしれないが、それは感情的立場からの意見であり、社会的価値の保全という点からみれば終身刑の意味はない。感情的立場から意見を言ってでなにが悪い、と思われるかもしれないが、裁判ではそのよう立場で議論するべきでないことは明白である。

倫理的な側面は別として、死刑は社会という集団で生きていくうえで、やはり合理的なのではないかと思う。