ポリティカル・コレクトネス
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ポリコレはポリティカル・コレクトネス(political Correctness)の略称 。本来は誤解を招かないような中立的な公正さを意味するが、実際には人選をする際に容姿や人種、性別などによる要因を排除することのように使われる。例えばディズニーの黒人の主人公や、ブランド広告で太った人を採用するなどの様子を指して、ポリコレに配慮したといった使われ方をする。
映画の製作者がどのようなキャスティングをするかは彼らの自由だし、広告主がどんな体形のモデルを採用しようと外部がとやかくいう筋合いはない。
でもひっかかるのは、本当に彼らは自身の表現したいものを表現しているのだろうか?もっとはっきり言うとそうはみえない。
たとえば容姿に関して言えば、太っているよりもスリムなほうが美しいと思うし、太っている体形を美しいとは全く思わない。アジア系の顔がダメとは言わないが、肌が白く眼が大きい、小顔のヨーロッパ系の人種の顔立ちは見とれるほど美しいと思う。いわゆるLGBTは生理的に受け付けない。いいだすときりがないけれど、言いたいことはなにかというと、個人的な差異はあるにせよ、美しいものは美しいし、醜いものは醜い、気持ち悪いものは気持ち悪い。それを表現することに対して、中立でない、といって排除することは間違っているといいたい。
ところが、おそらくではあるけれど、最近の「ポリコレに配慮した」表現は表現したいものを表現できず、中立になるように「強制された」表現にしか見えない。
もちろん、私が個人的にそう思っているだけで、皆が表現したいものを表現した結果、中立になっているかもしれない。(絶対そう思わないけど)
(無駄かもしれないが)誤解の無いよう補足しておくと、差別は許容されないし、誰かを中傷するような表現も許されない。醜いことや白人でないことがダメなわけではない、役割によって適材適所がある。適材適所を無視して、すべて中立にする表現には芸術的価値はない(売り上げを最大化する商業的価値はある)。
我々が見たいのはスリムで強く美しい主人公が醜い悪を打つ物語だ。小太りで目が小さくどんくさいパズーと短足で人間に怯える不細工で小心なシータが演じる「天空の城ラピュタ」は名作にならない。